実は太陽の塔は「あるもの」を見つめていた!?その瞳の先にある今は亡きあるものとは…
2019年10月27日

しかし、そんな太陽の塔…今でこそ万博の象徴として知られていますが、実は万博のシンボルとして建設されたワケではなかった…。しかも万博終了後には解体されるはずだった…。
そんなビックリするような逸話があるのをご存知でしょうか。今回はそんな"太陽の塔"の謎に迫ります。

太陽の塔の裏に描かれた「黒い太陽」。過去を表現している
昭和の奇才と呼ばれた故岡本太郎氏がデザインし、建設された"太陽の塔"。当時は、大阪万博のテーマである「人類の進歩と調和」を表現する場、つまり展示空間のひとつ「テーマ館」として建設されました。
そう。建設された当初は、メインテーマを表現する場であったものの、万博会場内にある数多くある"パビリオンのひとつ"に過ぎなかったのです。
最近になり、内部の一般公開が始まったことで、万博開催時はパビリオンのひとつであったという事実が、万博を知らない世代にも知れ渡るようになりました。それまでは、ただの巨大なオブジェだと思っていた方も多いのではないでしょうか。
そんなテーマ館のデザイン・監修を任された岡本太郎氏は、ぶっ飛んだモノを造りたいと、テーマ館の周りを覆う大屋根を、突き抜けるデザインの太陽の塔を考案しました。そして、万博開幕に合わせる形で建設。万博閉幕後は他のパビリオンと同様、解体される前提で建設されました。
では当初、EXPO'70(大阪万博)のシンボルとして建設されたものは一体なんだったのでしょう。
万博世代の方や、物知りな方は知っている人もいるでしょう。
そう。それは今は亡き「エキスポタワー」です。

エキスポタワーは菊竹清訓によって設計され、EXPO'70(大阪万博)のランドマークタワーとして建設されました。
エキスポタワーは高さ127mを誇る展望塔で、エキスポシティ脇にある大階段を登った先にありました。その高さは大阪のシンボル"通天閣"よりも高く、さらに高台に立地していたため、北摂なら何処からでも見るこができたといわれています。万博開幕中は、会場内全体の無線通信の中継アンテナとしての役割も担いました。
このエキスポタワーこそ、EXPO'70(大阪万博)のシンボルとして建設された建造物で、恒久的に後世に残すものとされていました。
EXPO'70(大阪万博)終了後は、銀色の柱が赤と白に塗り替えられ、隣接するエキスポランドのアトラクションのひとつとして、展望台に登ることができました。しかし。老朽化などの理由から1990年に展望台は閉鎖。その後は手付かずで放置され、2003年に解体されることになります。

解体後、一部は万博公園内のEXPO`70パビリオン前に展示されている。
そんなEXPO'70(大阪万博)のシンボルであった"エキスポタワー"を見つめるようにして建設された建造物こそ、故岡本太郎氏がデザインした太陽の塔だったのです。

赤丸の場所が、かつてエキスポタワーが建っていた場所になります。ちょうど太陽の塔が見つめる先に、かつてのシンボルがあったわけです。

大階段の上った先にある広く開けた土地に、かつてエキスポタワーがありました。今はガンバ大阪の試合がある時以外は、ほとんど人が通らない場所です。
一方、奇抜でシンボル性が高く、万博開幕中に大きな注目を集めた太陽の塔。万博閉幕後は保存を求める運動などもあり、後世に残すものとして1975年に永久保存が決まります。

今は亡き、エキスポタワーを見つめる太陽の塔
私自身、本などを読むまではこのような事実は知らず、てっきり太陽の塔はEXPO'70(大阪万博)のシンボルとして建設されたと思っていました。
それにしても皮肉ですよね。
万博のシンボルとして建設された「エキスポタワー」は解体され、テーマ館という役割があったものの、数多くあるパビリオンのひとつでしたかなかった"太陽の塔"が永久保存されることになったのですから。

かつてエキスポタワーがあった場所に今も残るタワーの残骸
それだけ太陽の塔はインパクトが強く、人々の印象に残るものだったのかもしれませんね。
最後までご覧頂き、ありがとうございました。
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